NEWS
2011.12.02
【会員限定】卓話「東日本大震災を乗り越えて ~学校そしてふるさとの復興を目指す宮古水産高校の取り組み~」金野仁氏(岩手県立宮古水産高等学校長)
日 時:2011年12月2日(金)12:30~13:30
場 所:法曹会館 2階 高砂
講 師:金野仁氏(岩手県立宮古水産高等学校長)
演 題:「東日本大震災を乗り越えて ~学校そしてふるさとの復興を目指す宮古水産高校の取り組み~」
○講演概略
このような報告をする機会を与えていただき、ありがとうございます。青森、岩手、宮城、福島の4県の水産系の高等学校7校を代表して、今回の被害に対し東京キワニスクラブが支援の手を差し伸べてくださったことに対し、御礼を申しあげます。ありがとうございました。
私はご紹介のように昭和28年に岩手県の大槌町に生まれました。大槌町は町長以下、町の幹部職員が数多く被害を受け、県内でも甚大な被害を受けた地域です。今回の震災を契機にわが町の名前が知られたことは残念なことではありますが、私はこのような町で生まれ、水産のために生き、現在に至っています。実家は跡形もなくなくなり、コンクリートの基礎だけが残りました。両親は大津地町の仮設住宅で暮しています。私は宮古市の学校の住宅で暮しており、妻は盛岡で仕事、子ども達3人は東京方面で学生生活を送っており、両親も含め残った家族は皆元気で頑張っております。
宮古水産高校の震災前までの取り組みを紹介しながら、皆様からご支援を受けている私達の学校について紹介し、後半では震災後に支援を受けて頑張っているところを報告したいと思います。
本校は明治28年に地域起こし、人材づくり、水産業の発展を願って、地域の人達の発案でできた学校です。最初は組合立の学校でした。その翌年が明治の三陸大津波です。2万人弱が犠牲になり、岩手県の犠牲者は18,000人以上でした。このとき学校を臨時休業とし、学校を避難所として生徒、職員が復旧に当たったと百年史に記されています。この年に本県初の鮭の人工孵化にも成功し、のりの養殖や缶詰製造も始まりました。日露戦争で缶詰をつくり、軍に納入、明治43年に初代の実習船「妙福丸」がサンマ漁の調査を行い、サンマの食べ方、加工法をパンフレットにして啓発に努めました。これが宮古のサンマの始まりになりました。今もサンマの缶詰をつくっており、生徒が実習でつくっている缶詰は100年の歴史と伝統の味であると言っています。また、ロンドンの博覧会に出品して大変な賞をいただきました。
明治、大正と学校は大活躍しましたが、昭和になって少し寂しくなってきました。学校が低迷していた時期だと思います。昭和8年に昭和の三陸大津波、このときも被害の中心は岩手県でした。昭和35年のチリ地震津波は私が小学校に入った年で、丘の上から津波が来るのを見て、船が橋げたにぶつかったり、町の中に乗り上げて大変な被害が出たことを記憶しています。昭和55年には本校が誇る卒業生、鈴木善幸大先輩が第70代の総理になりました。昭和62年に鮭の中骨缶詰を生徒の研究から開発し、ヒットしましたので、宮古漁協が缶詰工場を新設し、今は下火になりましたが、現在もつくっています。私が平成20年に校長に就任し、地域の活性化、地域に貢献する学校づくり、人づくりをテーマに活動して参りました。21年にはマグロの実習船「りあす丸」で厨房と食堂を使って生徒レストランを開店したり、全く利用されていなかったすじめという海草を研究し、地域の企業と商品化にとりかかりました。順調にすじめ商品が拡大していた矢先に東日本大震災が起きました。
○3.11の映像上映
私達は歴史や本校の過去の取り組み、宮古の環境などを考え、宮古の強み、資源は何かと考えました。本校には水産科と食物科があります。食物科は調理師を養成する学科です。そのことから生産から加工、調理まで学科間の連携、総合的な展開が可能です。今、食育、環境教育が教育界の話題ですが、その食育、環境教育に強みがあり、地域のセンターを目指そうと頑張って参りました。全国に誇れる食材の宝庫であり、歴史と伝統があります。校長室に掲げている鈴木善幸元総理の書が私達を元気づけています。昭和47年には夏の甲子園大会に初出場しています。オリンピック選手は4名います。かつてはこのように頑張っていた学校でしたが、近年、翳りが見えてきました。また、素晴らしい大先輩がいますが、いずれも亡くなられたり、高齢になったりしていますので、平成20年当時、今ここで学校起こしをしなければ、うちの学校は時代の流れに埋没してしまうという危機感がありました。
そこで、地域、ふるさとに貢献する学校づくりということで、生徒を地域に押し出して、地域の人々にみてもらい、褒めてもらって、リアクションを生徒、私共の刺激にして、頑張って行こうと考えました。地域連携、環境教室、研究活動が盛んになり、中骨缶詰が成功しましたので、すじめという海草をつかった商品もたくさんできています。流通の問題があり、マグロ漁船は焼津と三崎に水揚げして、空で宮古に帰ってきました。岩手県の船、県民の船、宮古港所属の船、生徒がとったマグロを岩手県民に食べてもらいたい、宮古の人達にもたくさん食べてもらうことが、生徒の誇りにつながると考えました。水産庁と文科省から支援をいただき、漁業者の担い手をつくっていくという事業を21年から行なっています。ここで実習、学習の状況を説明いたします。宮古漁協の大型の定置網の設置の準備を漁師達と一緒に活動しています。3年くらい経った大形のかきを4月末から6月ごろに出荷しますが、生徒達は漁師のかき小屋で一緒に作業をしています。地域ブランドになりつつあるかきです。昆布を刈り取って港に戻ってきます。宮古漁協でのホタテの稚魚の調査にも参加しています。写っている生徒は今年卒業した盛合奏恵(もりあい かなえ)と言います。在学中の1月にマイナーレーベルですが、CDデビュー致しました。現在は叶弦大先生のところで修行中です。いずれ出て来ると思いますので、そのときはよろしくお願いいたします。ウニの解剖と称して最後は食べてしまいますが、皆様に味わっていただけないのが残念です。岩手県は盛んに増殖を図っているヒラメの稚魚を県の職員と一緒に放流しています。本校で2番目に大きい実習船「翔洋」は岩手県の沖合いでイカ釣り、鮭はえ縄、サンマ棒受網の実習を行なっていました。海草のすじめは昆布やワカメの仲間です。これをカットしてパックして販売しました。パッケージには宮古水産高等学校水産物有効利用研究班との共同開発と書かれていて、販売者は宮古水産加工業協同組合、地域の企業と連携してつくりました。そのような研究が評価され、岩手ビジネスグランプリを受賞するとともに、同年に、全国水産高等学校生徒研究発表大会で最優秀賞と文部科学大臣賞をいただきました。「シャキシャキすじめ」というのが商品名です。すじめの研究をする生徒を本校ではすじめ娘と呼んでいます。昨年の3月に高島屋で行なわれた岩手物産展に達増岩手県知事がシャキシャキ娘を応援してくださいました。シャキシャキ娘の一人が地元の老舗の煎餅屋に就職し、煎餅屋の新商品を共同開発いたしました。地元ホテルではすじめ御膳と銘打って観光客に提供しています。今年の2月に県内の漬物メーカーと共同開発した商品の発表会を県の仲立ちで行ないました。そのときのポスターも本校の生徒がつくりました。りあす丸は本校で一番大きな船はハワイ沖にマグロ実習に行きます。このりあす丸が魚市場前に入ってきたときは大変感動しました。テレビ等のインタビューを受けるのも生徒達の成長には大変有効で、生徒達の気持ちを前向きにしてくれます。また、地域にはたくさんのOBがいますから、生徒達の活躍がOBを喜ばせます。そうすると、OB達が活性化し、地域が活性化します。私達は海、水産に誇りを持とうを強調し、地域の活性化ために水産高校として何が出来るか考えながら頑張ってきました。
そして、3.11の地震、津波です。海から学校の敷地まで200mありません。堤防でかなりの津波が防げました。地震が起きた時にただ事ではないと思いました。最初は大津波警報でしたから、避難訓練をしている通り裏手の山を通って逃げました。私は堤防を越えてきたら学校がどうなるか見届けようと思い、途中で立ち止まって見ておりました。第2波が来た時は背筋が凍る思いでした。海は尋常ならぬ様子で、大きな船やクレーンを積んだ船が行ったり来たりしていました。津波が去った本校のグラウンドは瓦礫の山でした。沿岸にある実習施設もめちゃくちゃになりました。2番目に大きい実習船「翔洋」は変わり果てた姿で海から500m奥の陸に流され、移動ができずに解体しました。生徒の被害は死者3名、亡くなった保護者4名、約100名の生徒が被害を受けました。
今までは行け、行けでやって来ましたが、今年度は復興が大事ということで、ポイントはともに歩むです。例えば、いろいろな支援を受けて実習が可能になったとしても、地域の漁師が漁業ができていないときに、学校だけが実習をやってもよいのかどうか、水産業あっての学校ですから。地域の復興を一緒になって歩みながら、学校も復興して行こう。そして、ふるさとの復興に貢献するという志を育てようということを今年のテーマにしました。仮設住宅の支援、漁港、海岸の瓦礫撤去、漁協等の施設が失われていますので、残っている学校の実験室を使って製造を開始しました。目黒のサンマ祭りの参加等々です。新潟県の小千谷市の方から中越地震のときの支援物資の中に本校の缶詰があり、勇気づけられたので、菜の花の苗を添えた手紙が参りました。それを希望の花と名付けて生徒会が育てています。小千谷の青年会議所からプランターと苗が送られてきましたので、第2グラウンドにある仮設住宅にプランターと土と種を配布して、花を咲かせていただきたいとお願いしています。また、ワカメ養殖もスタートできる状態になりました。7月に海洋立国功労者表彰も受けました。
○目黒のサンマ祭りの映像上映
今回の大震災で最も大きなダメージを受けたのは水産業です。水産業の将来に希望を見出せずに撤退して行く人もいます。また、高齢化もあります。水産業の目指す若者達の心にも大きな傷を残したと思います。私達は海、水産業に誇りを持ってきましたが、今回の大津波はその誇りをも失いかけるほどの大きな出来事でした。しかし、自然は必ず復活します。今こそ宮古水産高校の歴史と伝統の力が求められていると思います。このような状況のときに東京キワニスクラブの皆様が私達の活動を激励してくださることは、大変心強く、感謝にたえません。いただいた支援金は復興の活動に使わせていただいています。予算が限られている中で、学校に裁量が任されているお金をいただいたことは、私達の活動を助けております。この津波被害により、3年生が卒業後にどんな進路を選ぶが心配していましたが、生徒にも元気がでてきたようで、卒業後は漁船に乗る生徒、水産会社に就職する生徒も数多くいます。また、本校には専攻科という上級の海技士資格を目指すコースもあります。そこへの進学を希望する生徒もいます。全国豊かな海づくり大会に参加した1年生は将来、家業の漁師を継ぎ、地域の復興のために頑張りたいと力強く語っています。大震災からどのような形で復興したらよいか、どこから手をつけてよいか、大変重苦しく押しつぶされそうになっていた時期に東京キワニスクラブの伊藤前会長と堀井会長が浜松町の全国校長会の会場でお目にかかり、支援のお話をいただきました。初めての支援の話でしたので、大変戸惑いましたし、どう対応してよいかもわかりませんでした。最初の支援のお申し出として大変印象深く残っており、忘れられない光景でした。このような東京クラブのご厚情を思うときに、復興への熱い思いを新にするものです。本当にありがとうございました。本日は皆様に対する感謝の気持ちの一端を申しあげる機会を与えていただき、ありがとうございました。私達は学校、ふるさとの復興を信じ、地域とともに前に進む覚悟です。どうかこれからも温かい目でご支援をお願いいたします。東京キワニスクラブのますますのご隆盛と会員皆様のご健勝を祈念しつつ報告を終わります。
